私とファドの話

 私がギターラに興味を持ったのは、1997年私がモントリオールでアルトゥール・ガイポ(Artur Gaipo)の伴奏をし始めたときにさかのぼります。ガイポはギターラ演奏の大家でした。最初アゾーレス(Azores)で学んだ彼は、1940‐50年代にリスボンにてプロとして演奏し、勉学の為コインブラで過ごしたこともありました。70年代、私は、アルチュールと彼のポルトガル・ギター・クアルテットで、ヴィオロン(Violao:スパニッシュ・ギター)を弾いていました - 他のメンバーは、第2ギターラのフェルナンド・ロッシャ(Fernando Rocha)とジョゼ・マルキス(Jose Marques)。レストラン、社交クラブ、テレビ、刑務所、学校やケベック州のラジオ局で共に演奏しました。スタジオ・ミュージシャンであり、主にコインブラ・スタイルの演奏をするジュエルマーノ・ロシャ(Germano Rocha)やモントリオールの レティーロ・デ・セヴェラ(Retiro de Severa)の所有者のアルベルト・コスタ(Alberto Costa)の方々の伴奏をいたしました。最近になって知った事なのですが、アルベルトは1930年代リスボンで、歌手としてまたファド・ドイス・トン(Fado dois Tom)の創設者として、そこそこ知られた存在でした - 彼はまたファド・コンサートのマネージメントもおこなっていました。

 1974年、私の妻ジャネット(Jeanette)と私は、ポルトガルのコインブラ大学で、言語と文化についての夏期講習に参加致しました。その5週間コースのうち、我々は、コインブラの学生やリスボンの働くミュージシャン達と演奏しました。残念な事に、その時にはギターラを手に入れることができませんでした。

 1976年、私がブリティッシュ・コロンビアのバンクーバーへ移った年、アルチュール・ガイポにギターラを1台作ってもらいました。1年後やっと受け取り、ジョゼ・アマラル(Jose Amaral)からいくつかレッスンを受けました。1978年、カリフォルニアに戻り、1980年頃には、アルチュールが作ってくれたギターラを学ぶ為に時間を費やそうと決心しました。 不幸にも、その楽器は乾燥不十分な木材料を使用されていた様子で、数年の間で乾燥が完了したのです。 その為、全体に縮み、ネックはねじれ、胴裏は割れ、表板は崩れ、裂けてしまいました、ギターラ本体の八巻きや縁飾りも緩んでしまいました。

 この状態は心の痛いことでした。しかし、この出来事は私の人生を変えました、何故ならこれをきっかけに、私はフレット楽器の修理の世界へ入っていたのです。スペイン、マドリッドの有名なホセ・ラミレスの工房で以前働いたり、学んだ事のあるスペイン系アメリカ人、ウィリアム・タピア(William Tapia)の親切な助力と指導で、ガイポのギターラを分解し、完全に新しい胴裏板を作り、表板の割れを修理し、新たに胴の縁飾りや八巻き、真珠貝の象嵌細工を作り上げました。遺体を解剖し研究する医学生のように感じました。また同時に、ギターラに再度命を吹き込むことをおこなっていたので、ちょっとフランケンシュタイン博士のようにも似ていたのでしょう。

 ガイポのギターラを再生した後、他のギターラを求め探してみました。しかし、1980年代には、1本も見つかりませんでした。結局、ポルトガルのギマライス(Guimaraes)に良いギターラを見つけましたが、1本だけでした。以後しばらくの間何も見つかりませんでした。ただ一つ、北部ポルトガルで、ギターラの糸巻きを幾つか見つけましたので、自分で作成した設計図とともにこの糸巻きを、ボリビア、コチャバンバのルネ・ガンボア(Rene Gamboa: チャランゴ製作家)と、メキシコ、ミチョアカン州パラーチョのアベル・ガルシア(Abel Garcia: スパニッシュ・ギター製作家)に送りました。それぞれギターラを作ってくれました。それらのオリジナリティは興味深いものでしたが、やはり真性のものでありませんでした。ボリビアで作られたギターラがカリフォルニアに戻り、 北部カリフォルニアの楽器商を通してそのギターが名古屋に現れた事は、やはり興味深いことです。

 1994年、私はリスボンを訪れ、ジョアン・パルメイロ(Joao Palmeiro)に会いました。彼に数台のコインブラとリスボン・タイプのギターラを作ってもらいました。これらの楽器を受けとると、フレットに手を加え、フレンチ・ポリッシュにて仕上げ、演奏しやすいようにフレットを調整いたしました。1996年再びパルメイロと、何台か楽器を作ってもらったアントニオ・ピント・ジ・カルヴァーリョ(Antonio Pinto de Carvalho)に会いました。

 1999年10月、私はルイス・ペネード(Luis Penedo)にリスボンで会い、非常に有益なレッスンを受けました。それは、この教本の一部となっています。 ルイスと私は数年の間、連絡を取り合いました。彼と彼の妻グラッサ(Graca)についに会う事ができたのは、私と私の妻にとって大きな喜びでした。

 1974年か1975年の午後、モントリオールのセント・ローレント通りにリスボア・アンティグア・レストラン(Lisboa Antigua Restaurant)の持ち主、ジュヴェナル・ダ・シルバ(Jevenal da Silva)が、別格のファド歌手アマリア・ロドリゲス(Amalia Rodrigues)が、3000席のプラス・デ・ザール(Place de Arts)のコンサートの後、真夜中頃彼のそのレストランに来ると、伝えてきました。彼女に会えるからと、彼は我々がそのレストランに寄るように招待してくれました。そしてその夜、ジャネットと私はアンティグア・レストランに入って行き、5‐6人のポルトガル人が飲んだり、話したりしているテーブルで立ち止まりました。11:30過ぎ頃、この著名な歌手で映画スターがミンクのコート姿で店に入って来ました。バーにいた男達は彼女が来る事を知らなくて、彼女を見た時には、非常に驚き、ほとんど倒れそうでした。偉大なアマリアその人が彼らの目の前にいたのです。

 彼女は、彼女のミュージシャンとともにやって来て、我々の隣のテーブルに食事の為座りました。そして、そのクラブの地元のポルトガル・ミュージシャンの演奏に耳を傾けていました。我々は挨拶を交わし、彼女のミュージシャンとも話す事ができました。

 何年か後、ジャネットと私はポルトガルに旅立ち、偉大なアマリアが亡くなった当日にリスボンに着いたのでした。彼女は享年79歳、全人生を全うしたのでした。 三日間、リスボンでは、敬愛する国民的宝である彼女の死を公然と悼んでいました。彼女の音楽は公の場や地下鉄で奏でられいました。彼女の写真は多くの店の窓に、花も彼女の為に献じられていました。我々を含む多くの人々は、丘の上の大教会に横たわる彼女の亡骸に会いに行きました。何千ものファンが花かごを献じました。教会のイスに座っていた年老いた女性は祈りながら泣いていました。出版会社は教会の外の様子をまとめたり、国営放送局はそうした出来事を収録していました。一般の人々の葬儀のミサの前夜、ルイスとガルサ・ペナードは我々を“ヌメロ・ウン”(Nemero Um)とう名のレストランへ連れて行ってくれました。そこは、プロのファド奏者の溜まり場で、週に一度、自分達だけの楽しみの為に集まって、演奏するのです。その夜、厳粛な雰囲気に包まれ、非常に心のこもったファドを聞く事のできて、魔法の夜なかで過ごしたかのようでした。その夜、マヌエル・カルドーゾ・デ・メネーゼス(Manuel Cardozo de Menezes)、亡き偉大なギターラ奏者アルシーノ・フラザォン(Alcino Fazao)の兄弟の方、マヌエラ・カバーコ(Manuela Cavaco)達より、特別はファドを聞きました。その夕べの半ば頃、アマリアの25年来のギタリスト、ジョゼ・プラカーナ(Jose Pracana)が到着しました。彼は、アゾーレスから葬儀のために飛行機でやってきたのです。彼はそこで多くの歌い手の伴奏をしました。そのうちに、彼は隅に座り、ギターラ1本でファド・アマリアを演じました。彼の今は亡き友へ彼自身の思いを捧げたのです。

 翌日、教会からのテレビ中継されたミサを見ていると、前夜の集いに居たファド奏者やギタリストの人達が特別ゲストとして着席しているのを、見出しました。 葬儀の夜、特別のコンサートが、“カーザ・ド・ファド・イ・ダ・ギターラ・ポルトゲーザ”(Casa do Fado e da Guitarra Portugesa)で開かれました。 そのコンサートは、アマリアが亡くなるかなり前に計画されたのですが、最後まで中止となるのかどうか、判りませんでした。 中止の可能性としては、演奏者がアマリアの最も最近の伴奏者、カルロス・ゴンサルベス(Carlos Goncalves)だったからです。 にもかかわらず、ゴンサルベス氏によって行われ、彼は、ヴィオラ(スパニッシュ・ギター)の伴奏で、ファドの大作をギターラで演じました。

 アマリアの一般の人々の弔意の中で、ファドやギターラを体験できた事は、ジャネットと私にとって本当に感動に満ちた経験でした。 アマリアが彼を慕う人々に与えた影響をみると、あなたもファドの底深い力を感じるでしょう。

結び

 もしあなたが採譜したことがあり、また書かれた楽譜やギターラのタブ譜をお持ちなら、どうか私に連絡ください。それを洗練させ、印刷可能な形にするようにお手伝いいたします。ポルトガル・ギターが存続する為には、我々全て資料作りをしていかなければなりません。 現在のところ、ギターラの演奏方法を知っている方はこうした情報を得ていません。私は強く全ての方々に奮起していただき、彼らがギターラについて知っている事を皆で共有し、この世界の感性豊かな人たちがギターラを楽しんで頂きたい、と思っています。

ロナルド・ルイス・フェルナンデス
(Ronald Luis Fernandez - Irvine, California)
2000年

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ロナルド・ルイス・フェルナンデス(RonaldLouis Fernandez)著
リスボン・タイプ ポルトガル・ギター演奏法 (C)2000 原著

翻訳:戸神敏彦(M.G Company,Inc. = Guitar-Harp.com
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M.G Company
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